院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


たじたじとなったムンテラ医者

 

「先生、どうしてわたしはこの病気にかかったのですか?」

そらきた、と私は思った。このありふれた質問に的確に答え、やや神経質になった患者さんを納得させるのは、医者の腕の見せ所である。まず、そのような質問には陰と陽、二つの側面があることを理解せねばならない。

「ねえ、どうして、どうしてわたしだけがこんな病気にかかるのよ。隣の奥さんなんて、よっぽどわたしより不健康な生活しているわ。不公平よ、ねえ先生、責任とってよ責任。」

得てして病気とは理不尽なものである。他人事のようにさらりと診断を下す目の前の医師に、多少のうらみつらみをぶつけたい心情は理解できなくもない。一方、病気の原因を尋ね、今後どうすればよいのかを、理論的に分析しようとる前向きな態度を示す患者さんもいるにはいるが、やはり少数派である。医者は病気の原因などを説明しつつ、ともすればネガティブになる患者さんの感情を、ポジティブなものに導く必要がある。それは治療の効果を上げる秘訣でもある。

さて、患者さんの病気について説明する場合、医者にとって伝家の宝刀とも言うべきフレーズがある。それは「なにぶん歳だからねえ。」とか「五十才を過ぎるとねえ。」などというものである。加齢による衰えを前面に出すと、患者さんも医者も妙にそれで納得してしまう。確かにわたしの専門分野である整形外科領域でも、加齢による退行変性がその病気の根幹にあるものが、外来患者の8割から9割を占める。しかし、「それを言っちゃおしまいよ。」という気もする。人間は、老化という避けられない運命の中で、健康でありたいと願いながら、懸命に生きているのだ。加齢は、悪役にすべきものでも仇敵として捉えるべきものでもなく、うまくつきあうべき仲間として考える、そういう心のゆとりが欲しいものである。

「先生、二,三日前から腰が痛むんです。」と八十七才のおばあちゃんが来院した。

「これまで、腰が痛くなったことはなかったのですか?」

「ええ、一度も。」

「それではまず、そのことに感謝しましょう。」

おばあちゃんは笑った。いい笑顔であった。

「なにぶん歳ですからねえ、でも先生、どうにか治してくださいよ。曾孫の世話もしなくちゃならないし、庭の草むしりだって。」

通常高齢者は、「やれやれ歳はとりたくないねえ」とか「若い頃さんざん苦労したからねえ。」といった愚痴は挨拶代わりなのだが、このおばあちゃんは、そういった愚痴の一つもなく、初めて経験する腰痛に対して飄々と構えていらっしゃる。こんなおばあちゃんなら、これまで病気の方が逃げていったのだろうと思いながら診察すると、からだには数カ所の手術の跡。百戦錬磨なのであった。悟りを開いた者の持つ清々しさに小賢しいムンテラ医者(口先だけの説明で患者を翻弄し悦に入る輩)はたじたじとなって言った。

「草むしりは腰に負担がくるから、控えてくださいね。」

「はいはい」
世話好きの孫のお節介を楽しむように、おばあちゃんは素直に頷いた。


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